9月18日の16:30から表題の写真展と講演会があった。

島田恵さんが現在撮影中の映像の紹介と、青森の農家の荒木茂信さん、福島の三春の武藤類子さんがゲストだ。
荒木さんは20年以上の島田さんとの付き合い。映画の撮影が始まった時に、「ジョカン」をやってほしいと言われ、女官ではないと思ったそうだ。(冗談)
武藤さんは、数年来、東電交渉をやっており、全電源喪失を聞いてすぐに会津若松まで車で逃げた。

武藤さんの話

避難所でテレビを見ていたら、新潟で地震があったというので、一度自宅に戻ったが、そのころ1号機が爆発した。山形の、それまで一度も会ったことのない人のところに10人ほどで避難した。あちこちに連絡し避難を勧めたが、どうしても避難できない人もいた。

今考えれば線量の高い場所から安全キャンペーンが始まった。講演会、ラジオ、テレビで大々的なキャンペーンがあった。毎日、逃げるか、これを食べるか、窓を開けるか決断を迫られた。

放射能に対する認識がみんなあまりにもない。不安を言うと、神経質とか、危険をあおるといわれる。年配の人が逃げれば、「いつまで生きるつもりだ。」と言われる。

太陽光と太陽熱でエネルギーの自給を始めていた。しかし、いざ事故になると山菜も食べられない、野菜も食べられなくなった。冷蔵庫をやめようと思っ たが、遠くから送ってもらわざるを得ないのでやめられなくなった。薪にも放射性物質がつくので、今度の冬には灯油を買って石油ストーブにせざるを得ない。

カフェをやっていたが、安全な食べ物が提供するのは難しいので、店をやめた。

簡易的な測定器で井戸水を測ってもらったら41bqだったので、1万円以上出して外部機関で測ったら、セシウムとヨウ素は出ていないということだった。

福島の電気は女川で作っている。廃棄物は青森に押し付けている。何かの犠牲になっているのが今の社会の現状だ。日本中の弱い部分が被害者になってい る。できる限り分断されずに生きていける社会をつくっていかなければいけないと思う。福島は棄民されたという感覚があり、見えない檻の中にいる。福島だけ でなく、沖縄も、青森も同じだ。

荒木さんの話

不用意に子どもを外に出さないでくれと。出るとしてもマスクをしてくれと延々と電話を掛けた。必死だった。

今まで、原発の話をしなかった人からも電話がかかってきた。情報の発信源にならざるを得なかった。とにかく子どもを守らなければいけない。PTAをやっていたので子どもの顔が目に浮かぶ。

1号機が水素爆発した時に次もあると思った。間違いなくメルトダウンが始まっているとも思った。

東北電力管内で広範囲の停電があったのは、管内で発電した電気は古川の変電所を通っており、そこが機能しなくなったためだ。

農家の部会長会議の時に、福島の放射能被害がここであったらどうなんだと若い部会長がいったら、みんな黙ってしまった。荒木さんがそれは仮定の話で はない。福島を現実として受け止めないと福島の人たちにも申し訳ない。再処理いやだということに尽きる。その場ではみんな賛同してくれた。

青果会社の人に聞くと、出荷するものは全部測っており、数値は結構出ているとのことだった。

人間の体は、極限になったとき、自分が生きていくために切り捨てていくようになっている。寒ければ、手足を凍傷にする。日本も、自分の体にとって切 り捨ててもよいところを切り捨ててきた。むつ小川原の巨大開発がはしりだ。このまま、弱いところを延々と切り捨てていくのか。弱いところは守っていかない といけない。

9月18日 福島 六ヶ所 未来への伝言

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です