沖縄に3日間行ってきました。
沖縄で長年運動に係っている、沖縄キリスト教センター館長代行の又吉さんに案内してもらったのですが、最初のオリエンテーションで、
沖縄ではできているのに、東京ではなぜできないのか。
という宿題がだされました。沖縄では反基地の集会で万単位の人が集まるのに、東京では集まってもせいぜい数千人なのは何故かという問いです。
八王子も、横田基地や相模総合補給廠、座間基地などが近くにあります。母数をどうとるかにもよりますが、沖縄県の人口が約140万人であることを考えると、人口約55万人の八王子で、4万人の反基地集会が開けないのは何故かという問いでもあります。
そのことを頭に置きながら、まず向かったのは普天間基地を見下ろす丘がある嘉数高台公園 。
丘の途中にある、野中広務が建設に尽力した京都の塔の碑。(写真をクリックすると拡大します)
数ある都道府県の碑の中で沖縄住民の被害に言及したのは異例だといいます。ただし、東京オリンピックの年の天皇誕生日(昭和39年4月29日)という日付に注目してください。
丘の高台から見た普天間基地。休日のためか飛行機やヘリコプターは飛んでいなかった。(写真をクリックすると拡大します)
普天間基地の第2ゲート。隣は児童公園!
普天間基地から沖縄国際大学へ。2004年8月13日に普天間基地の米軍へりが墜落した現場です。
焼けただれた木の向こうに見える茶色の建物の3階に、ヘリによって破壊された大学の建物のコンクリート破片が飛んだが奇跡的に地上の人に怪我はなかった。
沖縄国際大学の図書館の一角がヘリ事故の資料館になっています。
針金で墜落したヘリの軌道を、赤の人型で目撃者の位置を表示してある。ヘリの直下に人がいて、地上でのけが人がなかったことが奇跡的だったことがわかる。(写真をクリックすると拡大します)
この事件では、よく知られているように日本側の警察や大学関係者を締め出して米軍が現場の処理を行いました。米軍は、何かあれば法律などを無視して占領するという意思だと思います。
翌朝は、アメリカ総領事館から。2001年9月11日の前の8月に抗議行動を行ったときは、普段は無視されているだけなのに、目的などいろいろ聞かれたそうです。
キャンプ瑞慶覧の在沖米四軍調整官事務所。大きな日の丸は思いやり予算が施行された時から掲げられるようになったという。
広大なキャンプ瑞慶覧を近隣のショッピングセンターの屋上から眺める。(クリックで拡大します)
キャンプ瑞慶覧は、夜中に武装した米軍が来て、住民をたたき起こし、追い出されて作られました。追い出された住民には、ボリビア移民となった人もいるとのことです。
かつて黒人地区と白人地区が分かれており、キング牧師追悼のデモが基地の中で行われるということもあったそうです。
基地が接収されたとき、水源が基地の中にあるため、水を汲むことを集落の人びとが闘って勝ち取った。2重のフェンスになっている。現在は宜野湾市教育委員会名で文化財として管理がされている。
騒音に耐えかねて転居した家の跡地が防衛施設庁の管理になっている。
「象のおり」と言われていた通信施設があった場所。現在は返還されているが、施設は沖縄の別の場所に移っただけだ。
辺野古のテントへ。
数日前に、陸上自衛隊の幹部候補生学校からバス10台ぐらいを連ねてキャンプシュワブに来たそうだ。
10月30日と31日には、Peace Music Festa!が辺野古で行われる。
沖の島にある鳥居は日本人が来て建てたとのこと。沖縄の人の祈りの場は、方角が違う。
3日目に行った佐喜眞美術館。丸木位里・丸木俊の「沖縄戦の図」がある。
美術館の庭にある18世紀ごろの墓。ウィキペディア によると、台湾や香港、中国本土の福建省に見られ大陸からの伝播ではないかと見られているとのこと。
美術館の近くのフェンスにある注意書き。「市民広場は米軍施設区域内に位置し、米軍の厚意により使用しているところです。」とあるが、「米軍の厚意により」が消してある。
南風原文化センターにあった沖縄戦のときの集落の被害状況の図。右下は一人でも戦死者が出た家で、8割にものぼる。
南風原文化センターの近くに残っている「飯あげの道」。沖縄戦当時、陸軍病院壕へ食事を運んだ道。
3日間の中で、屋良朝博さんとダグラス・ラミスさんの話を聞いたので、次からはその報告です。