5日目は戦跡をめぐりながらソウルにもどりました。(対応する赤字)
- 1395年 景福宮完成。330棟あまり。
- 1592年 秀吉の侵略で大部分が破壊された。
- 1868年 第26代国王高宗が住居と政務を景福宮に移す。
- 1893年 沙鉢通文の謀議
- 1894年
- 2月 古阜で農民蜂起(万石洑(潅漑用の堰)の破壊)
- 4月 白山で農民軍の結集
- 5月 黄土峙で政府軍に対する初の勝利。農民軍全州占領(第1次東学農民戦争)
- 6月 朝鮮政府が清軍の出動要請。日本軍約6000人派兵
- 7月23日 景福宮を日本軍が占領
- 7月25日 日本軍、宣戦布告なしに清の軍艦攻撃
- 8月 1日 日本、清に宣戦布告
- 10月 東学農民軍第2次蜂起
- 11月 牛禁峠の戦い
- 12月 連山の戦い
- 1895年
- 2月 大芚山の戦い(記録に残る東学農民軍最後の戦い)
- 4月 日清講和条約調印
- 10月 景福宮において日本による明成皇后(閔妃)殺害事件
最初に行ったのは、東学農民が最後の戦いをした大芚山戦地。急峻で天然の要塞だったこの地に1894年12月に60人ぐらいの農民軍が立てこもり、最終的に1895年2月18日に後背地から日本軍や政府軍が奇襲を受け、最後まで残っていた26人が全滅したということです。なぜ持ちこたえたかというと、周りの集落の人びとがひそかに支援したからであろうということがいわれています。

次に向かったのが、連山戦闘地。

1894年12月9日に、日本軍の後備独立歩兵第19大隊が連山に駐屯し、1万人規模の東学農民軍と最後の激戦をしました。大隊の本部が駐屯した場所の門が当時のまま残っています。

大隊長だった南小司郎の行李が近年になって見つかり、周りから攻撃されたことが具体的に書いてあります。それによると農民軍は黒衣の人たちが白衣の人たちを指揮し、組織的に動いていたそうです。現職の官吏たちがあちこちで農民軍を支えたことも南大隊長の文書で確認できるそうです。
この場所で12月10日に、杉野虎吉という農民軍との戦いにおける唯一の日本軍の戦死者がでました。しかし靖国神社の記録では、成歓の戦いという日清戦争での清国軍との最初の陸上での戦いで7月29日に戦死したことに改ざんされているそうです。そこまでして農民軍と日本軍の戦いがなかったかのように見せたいのでしょう。
最後は、牛禁峠戦闘地。

連山の戦いの1週間ほど前まで、3万人から8万人の農民軍と日本軍がこの牛禁峠で40-50回の戦いを繰り広げていたそうです。農民軍が有効射程が30m程度の火縄銃に対して、日本軍は有効射程が300m程度のスナイドル銃では戦力の差が明らかで、農民軍は最後には500人程度しか残らなかったようです。
農民軍が実際に戦ったのは峠の向こう側であり、峠を越そうとしていた農民軍を慰めるため慰霊塔を1973年に建てました。当時の朴正煕大統領が自らの政権の正当化を図るために東学農民革命を利用したものです。

これで主な日程は終わり、ソウルへの帰途につきました。

ソウルに戻り、最後の夜は明洞へ。
