3日目は全州近郊で東学農民軍の戦跡をめぐりました。(対応する赤字)

  • 1395年     景福宮完成。330棟あまり。
  • 1592年     秀吉の侵略で大部分が破壊された。
  • 1868年     第26代国王高宗が住居と政務を景福宮に移す。
  • 1893年     沙鉢通文の謀議
  • 1894年
    • 2月    古阜で農民蜂起(万石洑(潅漑用の堰)の破壊)
    • 4月    白山で農民軍の結集
    • 5月    黄土峙で政府軍に対する初の勝利。農民軍全州占領(第1次東学農民戦争)
    • 6月    朝鮮政府が清軍の出動要請。日本軍約6000人派兵
    • 7月23日 景福宮を日本軍が占領
    • 7月25日 日本軍、宣戦布告なしに清の軍艦攻撃
    • 8月 1日 日本、清に宣戦布告
    • 10月    東学農民軍第2次蜂起
    • 11月    牛禁峠の戦い
    • 12月    連山の戦い
  • 1895年
    • 2月     大芚山の戦い(記録に残る東学農民軍最後の戦い)
    • 4月     日清講和条約調印
    • 10月    景福宮において日本による明成皇后(閔妃)殺害事件

最初は、萬石洑。洑というのは、水をせき止める所という意味です。洑を作るために農民が動員され、出来上がった後は税金を払えと言われたもので、それに抗議するとむち打ち刑に処されたそうです。1984年に立ち上がった農民によって破壊されました。これが東学農民の初めての武装蜂起になりました。

萬石洑遺址碑。残念ながら濃霧で何があるか分からなかった。
萬石洑遺址碑。残念ながら濃霧で何があるか分からなかった。
晴れていればこんな状況らしい。萬石洑(新洑)とあるので、当時のものではなさそう。
晴れていればこんな状況らしい。萬石洑(新洑)とあるので、当時のものではなさそう。

次に向かったのが黄土峙戦跡地。農民軍が政府軍に大勝した場所です。

「黄土峙戦跡地浄化記念碑」とあるが、文章中にある全斗煥大統領の文字がテープで消してある。
「黄土峙戦跡地浄化記念碑」とあるが、文章中にある全斗煥大統領の文字がテープで消してある。

クーデターによって大統領になった全斗煥が、自分が大統領になる運命であることを主張するため、同じ姓の”全”を探したところ東学農民の指導者”全琫準”がいたので、記念碑を作ったとのこと。

全琫準の銅像。
全琫準の銅像。
人々は全く同じ顔でしか表現されていない。またリーダとの差が際立っている。全斗煥大統領はこのリーダになりたかったらしい。
人々は全く同じ顔でしか表現されていない。またリーダとの差が際立っている。全斗煥大統領はこのリーダになりたかったらしい。
人々が無表情に見える。
人々が無表情に見える。

少し離れたところに東学農民革命記念館があり各種の資料や写真などが展示されています。

記念館の入り口では面白い造形の置物があった。
記念館の入り口では面白い造形の置物があった。
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謀議した文章。首謀者が誰か分からないように円形に署名した沙鉢通文が拡大してある。
さらに拡大するとこのような署名が。署名とはいえ同じ人が書いたものらしい。
さらに拡大するとこのような署名が。署名とはいえ同じ人が書いたものらしい。
全琫準が捕まった時の写真を拡大したもの。目が鋭い。
全琫準が捕まった時の写真を拡大したもの。目が鋭い。
当時の日本軍の服装。
当時の日本軍の服装。
こちらは朝鮮政府軍。
こちらは朝鮮政府軍。
前にいるのが農民軍。最初のころはさすがに竹やりではなかったらしい。後ろは清軍。
前にいるのが農民軍。最初のころはさすがに竹やりではなく政府軍並みではあったとのこと。後ろは清軍。
O日本軍は官軍とともに東学農民革命に参加した農民たちを全国で虐殺した。日本軍の農民軍に対する討伐は農民たちが二度と起きることができないようにするところに目的があったので、農民軍に対して残酷に虐殺した。
「日本軍は官軍とともに東学農民革命に参加した農民たちを全国で虐殺した。日本軍の農民軍に対する討伐は農民たちが二度と起きることができないようにするところに目的があったので、農民軍に対して残酷に虐殺した。」

昼食は農家レストラン。

入口には農村教育農場などの文字も書かれていたので、単なるレストランではないようだ。
入口には農村教育農場などの文字も書かれていたので、単なるレストランではないようだ。写真は入口から敷地の中に入ったところ。奥の建物で食事した。
野菜たっぷりの料理。
野菜たっぷりの料理。

昼食後は、無名農民軍慰霊塔へ。地元の人たちが建てたとのことで全斗煥大統領が建てたものと全く違う。

農民の力強さに圧倒される。
農民を描いた絵の力強さに圧倒される。
農具があり、一人ひとりの顔が違う。
農具があり、一人ひとりの顔が違う。
慰霊塔のそばにあったポスター。現代にも農民軍の伝統が活きているようにみえる。
慰霊塔のそばにあったポスター。現代にも農民軍の伝統が活きているようにみえる。
O謀議の文書を作ったという近くの家。建物自体はその当時のものではないという。
謀議の文書を作ったという近くの家。建物自体はその当時のものではないという。
東学農民に倣い、家の庭でツアー参加者が輪になって「東アジアの平和のために」の署名をした。
東学農民に倣い、家の庭でツアー参加者が輪になって「東アジアの平和のために」の署名をした。
これも近くにあった東学革命謀議塔。やはり地元の人が中心に建てたという。
これも近くにあった東学革命謀議塔。やはり地元の人が中心に建てたという。

次にバスで向かったのは、古阜官衛址(郡役所)。蜂起したあと米をみんなで分けた場所でもあります。当時の建物はつぶされ、1906年に小学校が建てられています。

現在は案内板とモニュメントがあることで当時何があったかわかる。
現在は案内板とモニュメントがあることで当時何があったかわかる。
やはり近くの全琫準の家。
やはり近くの全琫準の家。
周辺は今でものどかな農村だ。
周辺は今でものどかな農村だ。

次に向かったのは白山。平野の中の小さな山で四方が見渡せる。ここに農民が一万人集まり本部が農民軍の本部が置かれたという。

少し離れた場所にある農民軍が再結集をした白山城。城があったわけではなく地域の名前とのこと。「東学革命白山倡義碑」とある。
少し離れた場所にある農民軍が再結集をした白山城。城があったわけではなく地域の名前とのこと。「東学革命白山倡義碑」とある。
この日の夕食は、有名な全州ビビンパだった。
この日の夕食は、有名な全州ビビンパだった。
韓国 東学農民戦争の歴史をたどる旅(3)

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